文明大噴火
1468年(応仁2年)に噴火したが被害の記録はない。その3年後、1471年(文明3年)9月12日に大噴火が起こり、北岳の北東山腹から溶岩(北側の文明溶岩)が流出し、死者多数の記録がある。2年後の1473年にも噴火があり、続いて1475年(文明7年)8月15日には桜島南西部で噴火が起こり溶岩(南側の文明溶岩)が流出した。さらに翌1476年(文明8年)9月12日には桜島南西部で再び噴火が起こり、死者多数を出し、沖小島と烏島が形成された。
1509年6月2日(永正6年5月15日)、福昌寺の僧天祐が南岳山頂に鎮火を祈願する真鍮の鉾を立てた。この鉾は後に風雨のために折損したため1744年11月27日(延享元年10月24日)に銅の鉾として再建されている。戦国時代において桜島は島津氏の領地となっており、鹿児島湾を挟んで対峙していた肝付氏との争いの最前線として各所に城塞が築かれ兵が配置されていた。1571年12月6日(元亀2年11月20日)には肝付氏、禰寝氏、伊東氏の連合軍が100艘余りの船で桜島の各所を攻撃した。これに対して島津家久は横山、脇、瀬戸などに陣を構えて応戦している。
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1779年11月7日(安永8年9月29日)の夕方から地震が頻発し、翌11月8日(10月1日)の朝から井戸水が沸き立ったり海面が変色するなどの異変が観察された。正午頃には南岳山頂付近で白煙が目撃されている。昼過ぎに桜島南部から大噴火が始まり、その直後に桜島北東部からも噴火が始まった。夕方には南側火口付近から火砕流が流れ下った。夕方から翌朝にかけて大量の軽石や火山灰を噴出し、江戸や長崎でも降灰があった。11月9日(10月2日)には北岳の北東部山腹および南岳の南側山腹から溶岩の流出が始まり、翌11月10日(10月3日)には海岸に達した(安永溶岩)。翌年1780年8月6日(安永9年7月6日)には桜島北東海上で海底噴火が発生、続いて1781年4月11日(安永10年3月18日)にもほぼ同じ場所で海底噴火およびそれに伴う津波が発生し被害が報告されている。